早田カメラ史 『懐かしの1枚』

第七回 早田商店と救世軍

早田カメラ(1952) 早田商店(1952)

今の早田カメラができる前に、雷門2丁目で商売していた頃の店先の写真がこれです。看板が切れちゃっているけど、まだ早田カメラじゃなくて早田商店って書いてある。腕を組んでるのがオヤジで、その横にいるのが私です。まだ2歳とかそれくらいだね。オヤジの着ている服が、ちょっとカッコいいよね。戦争が終わって7年後の写真だけど、何だか軍服っぽい。でも、どう見ても日本軍のじゃないし、そもそもオヤジは兵隊にとられてないんです。

こんなにいいカラダだったから徴兵は2度来ているんだけど、オヤジは戦争に負けると思っていたからね。心臓が悪かったり痔だったりすると兵隊にならないでしょ。だから検査の前にお醤油をぐぅーと飲んで心臓をドキドキさせて不整脈にするとか、おしりを傷つけて「痔なんです」とやって逃げてたわけです。で、3度目に招集されて、これはもう逃げられないなって言ってたら終戦になったの。だから日本の軍隊とは関わりがない人だったんですよ。実はこれ、キリスト教の救世軍の制服なんだよね。

この店でオヤジはアイスクリームを主な商売にしていたんだけど、何でそんなコトになったのかはあとで説明するとして、そもそもオヤジは目黒の雅叙園で働いてカメラマンの助手をして写真の撮り方とかカメラの修理をおぼえたんだよね。それで最初は大森界隈の質屋さんから質流れ品のカメラを買ってきて、それも壊れているのを買ってきて直して古物屋さんなんかに売っていたの。戦時中になるとライカとかコンタックスなんかを売り買いするのは御法度だったけど、それでも隠れて売り買いを続けていたんだって。

夜おそぉーくに質屋さんに行ってパッと買って、夜おそぉーくに古物屋さんに行ってパッと売って、そのお金を持って山に隠れる。だいたい3日くらいは山にいて、ほとぼりがさめたらパッと買ってパッと売って、また隠れる。3日は山にこもって、3日仕事する。なにしろ夜遅くやるから、眠くならないように『ヒロポン』やってたの。あれは要するに覚せい剤なんだけど、戦前とか戦中は普通に薬屋さんで買えたからね。戦後も軍部が備蓄していた物資が大量に出回って、ヒロポン中毒で苦しんでいる人が沢山いたんだよね。

オヤジもヒロポン中毒で大変だったんですよ。『ヒロポン』って覚せい剤と同じだから昭和25年頃には売り買いが禁止されたけど、似たようなものが手に入る。それでお医者さんに相談して、紹介してもらった群馬県の猿ケ京にある温泉に3ヶ月こもってクスリを抜いたの。「ヒロポン中毒は脱薬してから誘惑に打ち勝つことが大変だ。できれば宗教に入ると心の支えになるので好ましいのだが」ってお医者さんに言われて、それだったら救世軍しかないと思い立って入信したんだって。

救世軍って、イギリス発祥のキリスト教の団体ですよ。オヤジは京都出身で子供の頃に救世軍の日曜学校に通っていたんだよね。ボーイスカウトやってたの。浅草の観音様もボーイスカウトやってるけど、救世軍もやってたんだね。そんなわけで子供時代になじみがあったから、上野の救世軍に入ったんですよ。何しろ救世軍は酒もタバコもダメだから『ヒロポン』なんてダメに決まってるからね。