早田カメラ史 『懐かしの1枚』

第八十四回 蔵前中学の運動会

蔵前中学にて(1963) 蔵前中学にて(1963)

こないだお母さんが床下収納の中から僕が中学のときの修学旅行のアルバムを見つけてくれたの。捨てずにとってあるなんてビックリだよね。貼り付けた印画紙の横にちょこちょこ何か自分で書き込んでいるんだけど、そういうことをしたような覚えはある。それで、そのアルバムの中に紙のネガホルダーが挟まっていて、何が写っているかよく分からないからネガフィルムを複写してみたら運動会の写真があったって? この写真の中に俺は写っていないけど、これは蔵前中学の校庭だね。

いい写真だけど誰が撮ったのかって? わかんねぇなあ。これを撮ったのは俺じゃないよ。あ、きっと俺の親父だ。たいがい学校で行事があればカメラを持ってきていたから。他のコマに写っているのは弟のケイジだから間違いないね。この聖書のページを開いているところを複写しているのも絶対に親父だよ。救世軍だったんだから。写っているのはヘブル書のモーゼが出てくるあたりなの? そうなんだ。俺にはこんなふうに上手く撮れないよ。親父は聖書を読んでいたのかって? 多分読んでいません。だって読んでいるところを見たこともないし‥。たぶん撮ってみたくて撮っただけだと思うよ。何しろ誰も予測がつかない人だったからね。

それにしても写真が上手いって? そりゃそうだよ、俺の親父は目黒雅叙園の写真室にいて撮影もしていたんだから当然ですけど写真は上手いよね。16歳で東京に出てきて18歳になるまでの間にいろんなことがあったみたい。それで戦争が始まって兵隊になりなさいって知らせが来たときに、最初はお尻に傷つけて『痔です』ってやったんだって。最初の頃だったから痔だと兵隊に取られなかったのね。それで兵役の知らせがまた来たときは醤油をぐぁわ〜っと飲んでね、心臓の鼓動がおかしいってことで兵隊になるのをまぬがれて、それで3度目の召集が来た時はもう戦局も悪化しているからどんな男でも兵隊にしようっていうことで、どうにも逃れられなかったみたいね。その令状が届いた次の日に終戦を迎えたの。うちのオヤジはね、戦時中にもブローカーをやっていたから軍人さんにライカを手配したりしていて顔が効いていたんだと思う。だから日本はこの戦争に勝てないって知っていたみたいだよ。

話が横にそれちゃったけど、親父の写真の腕はたいしたものだったの。秋山庄太郎が店に来てさ、俺の親父のことを先生って呼んでいたんだよ。それくらい、ものすごく古くから写真の世界のことやいろんな奴を知っていたのよ。木村伊兵衛とも友達だったの、いや本当にそうだよ。木村伊兵衛とか写真会の有名な連中が集まる飲み屋が浅草にあったの、あそこの角の2階にあったんだよ。そこに行く前なんかに店に挨拶に来ていましたよ。